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佐藤正一  Profile

1965年福岡県甘木市(現:朝倉市)生まれ。
地元の甘木小学校、福岡の西南学院中学、久留米の久留米大学附設高校を経て、一浪して東京大学・一留して経済学部卒。

1990年株式会社電通入社。セールスプロモーション、デジタル創生期の関連部署を経て今でいうSNSコミュニティサイト「Mail&Chat Club(メルチャ)」の事業起案から株式会社ネットワークコミュニティクリエイション(略ネコクリ)の設立にこぎつけ1998年~2002年4年間出向。
電通に戻りキャンペーンプランニング、事業開発、コンテンツ開発を担当。
2005年40才で独立・二子玉川で株式会社サンカクカンパニーを起業。同年末、「産総研」発技術移転ベンチャー第一号シナジーメディア株式会社の社長就任。

二子玉川には2001年に移住し、2002年~2014年13年間二子玉川スポーツ少年団サッカー部のコーチ。
二子玉川商店街に「BirthdayEveShop」「フタコのへや」を出店したり、「フタコハートストリート」や「街情報プロジェクト」の立ち上げなど。

現在、シナジーメディア株式会社代表取締役社長
2015年~2023年一般社団法人二子玉川エリアマネジメンツ代表理事(現在、理事)。
2019年~前橋工科大総合デザイン工学科の「広告学」、2023年から「メディア文化論」非常勤講師。
2020年~一般社団法人キネコ・フィルム理事。
2020年~100年以上前から続く同郷の会「東京あさくら会」会長。
2021年~たまがわ50合同会社設立、平社員。

2022年7月古着などの衣料廃棄物のアップサイクル事業【グリーンアップサイクル®】を本格始動。

メチャ長いプロフィールはコチラ

1965年(昭和40年)8月19日九州は福岡県甘木市(現在;朝倉市)に生まれる。実家は戦前は手打ちうどんの店、戦後は駄菓子屋からパン屋(最後はヤマザキデイリーストア。現在閉店)・・・屋号は、三角屋(みすみや→さんかくや)。小学校は市立甘木小学校。野球(というかその当時はソフトボール)に明け暮れる。青少年赤十字団の団長。少年バスケットボールのキャプテン。

中学は私立西南学院中学校。中学はキリスト系の男子校。片道1時間半かけ、地元から福岡市内に通学。軟式テニス部兼宗教部。毎日、般若心経を唱えつつ、日曜日には教会に行くような、とはいえ、ややツッパリ的なこともやり、田舎のヤンキーなこともちょこちょことつまみ・・・。3年の夏から、失恋を踏み台に、猛勉強。

高校は私立久留米大学附設高校。当時は男子校。高校では、近所の信愛女学院の子たちにもてたく、バンド結成。文化祭当日はバンドのボーカル兼生徒会会長で、体育館でSHOUT! またまた失恋を踏み台に、「おれは地元に残るものか!東京に行くぞ!」と、いろいろ大人なこと(?)も覚えつつ、猛勉強(?) 。とはいえ、現役で受験したところは全滅。

一浪。久留米大学附設高校の補習科。近所のアパートに同級生と集団寄宿。猛勉強!?+またまたいろいろ大人なこと(?)も覚えつつ・・・。

大学は東京大学文科Ⅱ類(現役のときは文科Ⅲ類を受験)、その後、ほぼ自動的に、経済学部経営学科。物珍しい東京で遊び呆け、学校のテニスサークル(サンフレンド)は「夜の企画部長」をやりつつ、自分で、インカレのお遊びオールラウンドサークル(Blue Chip)をつくり、ダンスパーティ(ダンパ)の開催、フリーペーパー雑誌(SPOON)の立ち上げに参画したり、学生向け旭川スキーツアーなどを企画したり。

というわけで・・・

第二外国語は中国語ですが、浪人時代に覚えた麻雀を打つ時の、チー(ツェー)の発音が東大に入りうまくなるくらいで・・・・・ ゼミはベイズ統計学(鈴木雪夫先生)でありながら、鈴木先生のテストで答案にまともに書けないのが露呈するのが恥ずかしく、基礎単位取得に失敗。退官された翌年、5年生で鈴木ゼミの先輩にあたる国友先生の「基礎統計」の単位を取得。

ですから、もちろん一留。

大学時代にいわゆるバブルを少しかじりつつ、売り手市場の強気な交渉を経て、バブルの余韻とその期待で1990年(平成2年)就職したのは株式会社電通。

セールスプロモーション局に入り、バブルの余韻も一気に消え、日々の業務に没頭?印刷制作のデジタル化(DTP)の現場体験をきっかけに、デジタル化の進展の今後の業界におけるインパクトを社内で訴え、その後、社内のデジタル関連の部署の初期の立ち上げにかかわり、その後の関連部署の拡大過程を経験した数少ないメンバーの一人。インターネットの勃興期にもあたり、シリコンバレーをはじめ多くのテクノロジーや人々の熱意(ベンチャースピリット)を結果として浴びることに。

そんな熱意にほだされて、新規事業の開発などを企む。そのひとつの事業プランがきっかけになり、約1年間の準備期間を経て、NEC・電通・ニッポン放送・ポニーキャニオンが出資した株式会社ネットワークコミュニティクリエイション(略称;ネコクリ)が1998年(平成10年)1月22日設立。

設立と同時に、もちろん志願し出向。女性コミュニティサイトMail&Chat Club(メルチャ)を立ち上げる。ネットコミュニティはビジネスになるか?と4年間奔走模索。JAR(JapanAccessRating)女性コミュニティ部門開設以来連続1位、動物占いをインターネットで初めてサービスイン、会員を利用したリサーチの仕組みをつくったり(チャッティングを利用したネット懇談会やオンラインCM評価など・・・)、女性サイト連合広告企画の商品化、各サイトにまたがる共通ポイントの仕組みをつくったり、会員の声で家具や飲料、トイレタリーなどの商品開発をしたり、ネット発の本を作ったり、あ!そういえば、Yahoo!カフェより前に、表参道の裏にインターネットカフェ(メルチャAOYAMA)をつくったり・・・。そこでは、オフ会やTV番組収録、イベントなども。事業は立ち上がりの苦難を乗り越え、一時、やや好転もするが、その直後にネットバブルの崩壊も経験。悔やむのは、動物占いがブレイクする前に止めざる終えなかったこと、招き猫栗という天津甘栗の商品をつくるも甘皮をむかなかったこと、もともと女子高生のポケベルで文字情報をやりとりしているのを見て事業アイデアが生まれたにも関わらず、というかそれゆえにi-modeが普及するとはその当時見抜けなかったこと、そして、最大は、事業そのものが早すぎたことと、それをブレイクするまで続けられなかったこと。そして所詮、自分は、創業者気取りの出向者で電通に戻らされたこと。

2002年(平成14年)電通に戻り、戻ってからはキャンペーンプランニング、医療用医薬品のDTC広告などの新しい広告領域の開拓、セールスプロモーションの領域のデジタル化などに取り組む。そのひとつの取り組みで、産総研と電通の共同研究を推進。(大学時代のベイズ統計学と関連したベイジアンネットワークを用いたマーケティング活用研究や現在のシナジーメディアの事業につながるコンタクトポイントシナジーメディア研究などを実施)

40歳を迎える2005年(平成17年)6月末に退社。同年7月株式会社サンカクカンパニー創業。サンカクカンパニーはいろんなことに参画するということで、キャンペーンプランニングからコンテンツ開発(BirthdayEve他)、Eコマース(日本オリンピック委員会公式グッズ販売サイト(初!)の運用他)、メディア開発、事業開発などに参画。

サンカクカンパニーで二子玉川商店街にBirthdayEveのコンセプトに沿ったベビー向けの雑貨屋を始めて、商店街の店舗という立場で街を見ることになる。いかにして商店街を盛り上げるかと、「街援隊」として、路上オープンカフェのトライアルから、二子玉川商店街青空アート&マートの立ち上げに参画。(2011.2.13~)

その後、ベビー向けの雑貨屋は閉じ、同じ場所に地域のコミュニティスペース「フタコのへや」を2014年8月に開設。(2017年9月末閉鎖。)スペースをシェアするルームメイトによるワークショップやイベントなども実施。私自身は2014年11月より、毎週木曜日夜9時から誰も見ていない?「タマドウ」というインターネット生放送(ニコニコ生放送)で番組パーソナリティ。(これまで100回以上の放送。現在、やってません)

2015年6月に着想した(準備約1ヶ月)8月10日(ハートの日)を軸に、約1か月二子玉川商店街を中心に「フタコハートストリート2015」というイベントをプロデュース。今、ハートストリートは「空飛ぶハートストリート」として、全国に飛び火中。


2005年(平成17年)3月、電通時代に産総研と共同研していた非接触ICカードを活用したCPSMプロジェクト(CPSM=コンタクトポイントシナジーメディア)から、交通系ICカードなどのお手持ちのカードを使ったマーケティングやコミュニケーション事業を行う会社シナジーメディア株式会社が産総研技術移転ベンチャー第一号として設立。独立して約半年後の12月、サンカクカンパニーのメディア事業開発の一環で、事業支援をしていた同社の社長に就任。社長就任後、ベンチャーキャピタルからの出資交渉など、金策に奔走。産学官の事業創造の壁や事業計画と実績の乖離に右往左往し、苦悩し、気が付けば、現在に至る。その間、日本鉄道サイバネティック協議会に入会。関東の大手鉄道事業者はじめ多くの事業会社に当社のソリューションが採用されている。

公共交通利用促進(鉄道事業者)、来店促進・買い回りなどの販促(商業施設)などの受注とあわせ、地域通貨インフラとしてシナジーメディアのソリューションを採用(国立市商工会・くにたちポイントなど)いただくことになり、そちらの視点からも地域活動へ直接関与することへの関心が高まっていった。

息子が二子玉川小学校でスポーツ少年団サッカー部に入ったことがきっかけで、自分もD級コーチ、4級審判の資格をとり、約13年、休日は地元のスポーツ少年団のサッカーのコーチということで小学生といっしょに汗を流し、地元のご家族ともサッカーを通じておつきあいが深まった。

100年先の街づくりを考える場として2カ月に1回の頻度で地域の関係団体、小学校やPTA、玉川警察署と商店街、玉川髙島屋S・C、東急電鉄などが参集する「二子玉川100年懇話会」に参加、2012年夏、「街情報プロジェクト」を立ち上げ。初年度は、企業と地域とが初めて行う合同ワークショップを企画・実施し、二子玉川の街情報のあり方についてのレポート(報告書)を作成。それに基づき、2013年から町会の掲示板を起点とした「掲示板Reデザイン」プロジェクト(地域の情報を季節ごとに一枚のポスターに編集掲載)を開始。2014年からは世田谷区提案型協働事業に採択され、掲示板に防災マップ機能を付加、リーフレット版の発行、2015年からはリーフレット裏面に毎回テーマごとのマップを作成合わせて協賛広告も開始。2018年は大学連携を始め、現在、東京都市大学西山教授を発起人とする二子玉川学会へと発展する。

そして、2015年4月に、地元町会(玉川町会)・東急電鉄・東神開発(玉川髙島屋S・C)の三者で構成され、世田谷区がアドバイザーとなって、「二子玉川エリアマネジメンツ」が設立され、代表理事に就任(現在、理事)。2019年1月一般社団法人へ。2020年2月には世田谷区第一号となる都市再生推進法人の指定を受ける。同年7月に素案を提案し、都市再生整備計画(二子玉川駅周辺地区)の策定。同年12月交通広場を活用した屋外広告物事業の開始。2021年2月 国土交通省により、多摩川河川敷・兵庫島公園一帯が河川空間のオープン化区域に指定。同年7月兵庫島公園における都市再生整備計画の事業(Mizube Fun Baseプロジェクト)開始。

2020年7月二子玉川開催されているキネコ国際映画祭を主催する一般社団法人キネコ・フィルム理事就任。

2019年9月より前橋工科大総合デザイン工学科専門教育科目である「広告学(下期のみ)」の非常勤講師を務める。2023年からは「メディア文化論」。

2021年7月には行政の枠を越えた地域課題をビジネスで解決すべく、世田谷区・川崎市の有志による「たまがわ50合同会社」設立に参画(平社員)。二子玉川商店街の依頼をうけ地域のみやげになるオリジナル「二子玉川珈琲」(10月発売)や川崎溝ノ口の減災をテーマにしたレシピジッパーの開発(10月発売)。


2022年7月古着などの衣料廃棄物のアップサイクル事業【グリーンアップサイクル®】を本格始動。地域で回収した古着を再加工し、地域で再利用する取り組みを普及させることに注力している。